【温故知新】最新の9冠ゲームから学ぶ、ドット絵世代が愛した「制約の美学」じゃな
【温故知新】ポリゴン時代の光と影、魂を揺さぶる傑作の共通項じゃな
いやはや、おじさんも驚いたのう。朝っぱらから海外のニュースを見ていたら、「フランスのビデオゲーム『Clair Obscur』がゲームアワードで記録的な9冠を達成した」という話じゃった。
9冠じゃと? 凄まじいのう。わしらの若い頃、ゲームといえば雑誌の数ページの情報だけで、そのゲームがどれだけ凄いか想像を膨らませていたもんじゃ。新作一本出るだけで大騒ぎ、ましてやこれほどの賞を総なめにするなんて、今の時代は本当に豊かになったのう。
しかしじゃ、ふと思うんじゃが。今のゲームはグラフィックが本当に実写のようじゃ。最新技術の粋を集めているのはわかる。じゃが、この『Clair Obscur』が、ただ技術的に優れているだけでこれほどの評価を得られたのか? おじさんは、そうは思わんのじゃ。きっと、そこにはわしらが愛した名作たちに通じる「何か」があるはずじゃ。
今のゲームにはない「味」
もちろん、この受賞作のグラフィックは息を呑むほど美しいんじゃろう。高解像度、リアルタイムレイトレーシング、なんとかシェーダーじゃとか、よう分からん技術がてんこ盛りなんじゃろうな。じゃが、いくらポリゴンを重ねて、現実そっくりな風景を作っても、それだけでは魂は入らん。
わしらが愛したドット絵の世界を思い出してごらん。ファミコン時代なんぞ、使える色数も解像度も、今から考えれば笑ってしまうほど貧弱じゃった。じゃが、あの頃の職人たちは、たった数色のドットで、夕焼けの寂しさ、敵の凶悪さ、そして主人公の強い意志を表現したんじゃ。
特に背景の描写じゃ。たった3ブロックの木でも、当時のわしらはそれが鬱蒼とした森のように感じられた。なぜか? それは、作り手が「表現しきれなかった部分」を、プレイヤーの「想像力」が補っていたからじゃな。ドット絵には、意図的に空けられた「余白」があったんじゃ。
この『Clair Obscur』のような最新の傑作が9冠も獲れたのは、きっとその超絶技巧の奥底に、かつてわしらが熱狂した名作のような、プレイヤーの心に訴えかける「設計図」がしっかり描かれているからじゃろう。技術は進化しても、ゲームの本質、つまり「いかにしてプレイヤーの感情を揺さぶるか」という点は、昔も今も変わらんのじゃな。
おじさんの独り言
それにしても、9冠とは凄い時代になったもんじゃ。昔のゲームアワードといえば、せいぜい年間のベストゲームが一つ決まるくらいで、こんなに部門が細分化されておらんかった。何より、容量が違ったのう。
ファミコンの初期のソフトは、たったの256キロビットROMじゃった。キロビットじゃぞ! 今のスマホの写真一枚にも満たない容量じゃ。よくあの容量の中に、壮大な冒険を詰め込んだものじゃ。あの頃のプログラマーやデザイナーは、まさに魔術師じゃった。
メガドライブやスーパーファミコンでようやくメガビット時代に入って、「容量は正義!」なんて言われたりもしたが、それでも今のBlu-ray一枚分の情報量と比べたら、砂粒のようなもんじゃ。しかし、あのカセットを本体に挿し込んだ時の、筐体にガチッとハマる感触と、電源を入れた瞬間のワクワク感は、今のダウンロード販売の時代にはない「儀式」のようなものじゃった。懐かしいのう。
技術の進化は止められんが、あの頃の「限られた制約の中で、いかに最高のアイデアを絞り出すか」という作り手の魂は、現代の超大作ゲームにも受け継がれていて欲しいものじゃ。
結論:名作は色褪せない
結局、ゲームが長く愛される条件というのは、グラフィックの美しさでも、容量の大きさでもないんじゃな。
重要なのは、そのゲームが持つ独自のアイデアと、プレイヤーを夢中にさせる操作性、そして何より、作り手の熱意じゃ。たとえドット絵が荒くても、物語が心を打てば、キャラクターに感情移入できれば、それは永遠に名作じゃ。
『Clair Obscur』が世界中から評価されたのは、きっとその制作者たちが、最新の技術を使いながらも、昔の名作たちが持っていた「魂」を忘れていない証拠じゃろう。おじさんは、この受賞を機に、また昔のハードを引っ張り出して、カセットをフーフーして遊ぶことにするぞ!
引用元: Google News🕹️ あの頃の興奮を、今のテレビで
押入れのソフト、眠っていませんか?
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